鳴海絞の歴史

1.なるみ絞の由来

なるみ絞の開祖は、豊後国(大分県)国府内城主竹中備中守(二万石)の藩医三浦玄忠の夫人である。慶長年間(西暦1599~1614)名古屋築城の際、藩主に従って来た三浦玄忠は、江戸への所用の帰途「鳴海の宿」に到したとき病気となり鳴海に居住することとなった。

夫人は夫の看護のかたわらつれづれなるままはじめた手芸を心ある里人に教えたのである。これが「なるみ絞」の始まりで今からおよそ360年程昔のことである。

このため、この絞を「三浦絞」又は「豊後絞」ともいっている。 夫人は明暦4年(西暦1659)9月13日に当地において没せられ緑区内、龍蟠山瑞泉寺にその墓がのこされており毎年9月13日に鳴海絞商工協同組合により同じ緑区内の砦公園に鳴海絞開祖の碑の前で慰霊祭が執り行われております。


2.なるみ絞の今昔

三浦夫人が手芸として里人におしえた絞染はその後寛永年間(西暦1624~1643)藩主徳川氏に献上されて世にひろまったのであるが、寛文年間(西暦1661~1672)に至って藍染のほか、紅および紫の色紋を創始し、ついで絹布絞染をも考案し天和元年(西暦1681)「九々利染」の名を以て再び献上したことがある。

東海道の往来がはげしくなり「鳴海の宿」のなるみ絞は上下する旅人によって一層有名になり、浮世絵の大家安藤広重の東海道五十三次の浮世絵にも画かれるようになった


広重の東海道五十三次の画中に —たがぬいし梅の笠寺春雨に 旅うぐいすの着てや行らん と読まれ、なお —旅人のいそげば汗に鳴海瀉 ここも絞りの名物なれば と読まれている。なお文化年間(西暦1804~1817)常陸(茨城県)の人、佐久良東雄は —ゆあみしてきたる鳴海のくくり染 たもとすずしき夏の夜の月 と詠じている。

明治の末期より大正にかけて「なるみ絞」は一大飛躍をとげ業者も百数十店の多きを数えた。昭和年代に入って婦女の洋装が多くなったが日本人向きの清新さと復古調とにマッチして益々需要は盛んとなり、企業の強化に伴い業者こそ四十数店と減少したが、加工に従事する人はおよそ三万名、名古屋市の東南部、南区、緑区を中心に知多一円、岡崎市方面にまでおよび、年産150万反に達し、戦後は広く海外まで進出した。

夏の夕べ団扇片手の娘達の着ている「なるみ絞」を遠くアフリカ近東地方の現地人のサロンとして身にまとわれているということはうれしいことであり、今昔の感にたえない話ではなかろうか。

越後(新潟県)、姫路(岡山県)、博多(福岡県)の絞はまったく影をひそめ、絞といえば鳴海、鳴海といえば絞が思い出されるように360年の伝統をうけつぎ、その時代その時にマッチするごとく改善を重ね、品質の向上に努めてきたのである。


3.しぼりの種類
縫 絞 杢目絞・折縫絞・合せ縫絞・白影絞・縫養老・織養老・大典絞・ミシン絞・紙当絞
鍛 絞 龍巻・手筋・機械絞・柳・鎧投
蜘蛛絞 襞取蜘蛛・手廻し蜘蛛・機械蜘蛛・金蜘蛛・螺旋蜘蛛
三浦絞 石垣三浦・やたら三浦・横三浦・疋田三浦・筋三浦
鹿の子絞 手結び鹿の子・突き出し鹿の子・機械鹿の子
嵐 絞 斜嵐・縦嵐・縦横斜組合せ嵐・笹波嵐・千鳥
巻上絞 巻上絞・帽子絞・皮巻絞・竹輪絞・菊花絞
雪花絞 雪花絞・板締絞・蠟纈絞・村雲絞
桶染絞  
抜染絞