鳴海の町と鳴海絞
鳴海ではいつから人々の営みが始まったのでしょう。日本に人類が生活を始めたころから鳴海には人々が暮らした足跡が遺跡として残されています。
縄文時代には海の幸・山の幸が豊富で温暖な気候に誘われるかのように人が生活を始めています。正倉院に伝わる古い文書にも鳴海がたびたび登場しています。
成海、奈留美、鳴海と文字が変わる中で人々の生活と文化の発展がありました。そして、京と鎌倉を結ぶ鎌倉街道に続き、京と江戸をつなぐ東海道の発達とともに、宿駅となった鳴海の町も大きく発展してきました。
国の伝統工芸品に指定されている絞はいつごろから登場したのでしょう。絞の歴史は古く自然発生的に登場し世界中にあります。簡単なものは布を糸で縛ったり木で締め付けたりして染める簡単な絞です。
人々の生活が安定すると遺跡から発掘される遺物でも分かるように、腕輪・耳飾りなどでおしゃれをするようになりました。そんななかで衣服についても染めや絞りが登場してもおかしくありません。正倉院や法隆寺などに伝わる染織物に纐纈(こうけち)などと呼ばれる絞が多く残されており、日本独自の絞を7・8世紀にはすでに見ることができます。
鳴海では鎌倉街道沿いに藍が自生し、古くから染めに大いに利用されたことが考えられます。藍が自生する藍原(鳴海町相原)には、応永年間(1394から1426)年に九州から人々が移り住んでいます、この人々の中に絞の技術を持った人がいたことも想像でき。そして、藍染めと絞が合体して藍染の絞が登場したのでは、とも考えられます。
室町時代には絞に絵を加えた「辻が花」と呼ぶ染物が登場します。人々は平和な世の中だけでなく、戦国時代の混乱した時代にもおしゃれしたのではないでしょうか。女性はもとより男性も鎧の下に着る衣服には凝ったのではと考えられます。そんな戦いに明け暮れる暮らしの中で、辻か花と呼ばれる衣装も発展しました。
この辻が花については、熱田神宮の近くにあった辻が花と呼ぶ土地で作られていたとの説もあり、鳴海に隣接する場所であることから関連も考えられます。いずれにしても、絹織物が主で一般の人々には手が届かない高価な染織物でした。
鳴海絞が多くの人に知られ愛されるようになるにはもう少し時代を待たなければなりません。慶長15(1610)年名古屋城築城が始まり「豊後絞」の技術が伝わり、慶長年間には豊後の三浦という人が鳴海宿で病に倒れ手厚い看護のお礼に「三浦絞」を伝えたともいわれます。いずれにしても、鳴海は三河・知多木綿の産地に近く、絞産業の発展する基盤はおおいにありました。東海道の発展とともに行きかう人々によって全国に広まっていきました。江戸時代の歌川広重ら絵師の描く錦絵にはよく絞が登場しています。多くのひとに知られるとともに新しい絞技法が考案されるなど、絞に益々磨きがかかり発展していったと思われます。